楽しむということ

学ぶことは人の楽しみだということについて、
 
1.学ぶことは「必ずしも」楽しいことではなく、我慢することも大事
2.単純に楽しむというのは駄目ではないか?
 
このような話が出ていましたので、もう少し書きます。
 
中学校で「私は理科が大嫌い」という女の子がいました。でも授業をやると素晴らしい発想と実験を繰り返します。その子の持っている本質が引き出されていないんだなと感じました。
 
子どもを観ていると、新しい漢字を一つ書くことでも実は「楽しい」のです。楽しく無くさせているのは、間違いなく我々「教師」です。おそらく人間の脳が高度に成長する仕組みとして、新しいことが分かったら、出来たら、「ドーパミン」などの物質を放出して、それを維持させるように機能しているのだと考えられます。もちろん人間は感情系も複雑ですから、こうした本能だけで行動しているわけではありません。
 
しかし「学び合い」は、学ぶことへの障壁を消し去っていきます。安心して学べる場を通常の教室よりも遙かに提供できるのです。だから子どもは安心して、学ぶことを楽しめるのです。だから、子どもは「学び合い」を維持していこうとします。担任が代わってもね。
 
我慢して学ぶことの先には、私は何もないと考えています。ごく少数の成功体験が、「我慢」のメリットを強調します。そして「お前も苦労して学ぶことが大事なのだ」と。しかし、その裏には膨大なデメリットを抱えているはずですし、それに耐えきれないではみ出す人は多数いたことでしょう。
  
「達成するにはみんなでやらなくてはいけないよ。だれもはみ出してはいけないよ。」
「みんなでやる方が楽しいよ。みんなで力を合わせていこうよ。」
 
私たちは大人になった時にどちらの人とともに仕事をしたいでしょうか?
 
誰一人切らないことはもちろん大事です。でもそれは全面に強調して出すことではなく、子どもの姿の裏側に見える「ゆるい」絆でいい。そうしなければ、子どもは「誰一人」という言葉に次第に圧迫されていくのです。そして学習とは頑張らなければならないものという流れに向かいます。
 
本当は学ぶことは楽しい。子どもを不幸にしないというのはこうしたことに気づかせてあげることでもあるのだと思います。
 
ちょっと支離滅裂ですが、今ずらずらと書き出してみました。