「学び合い」を止められるということ

私は保守的で、一方的なごり押しをする教師という人間を軽蔑しながら、学生時代を送ってきました。自分が教師となった今も、その狭間に喘いでいます。
 
先日の「学び合い」の会で、若い教師が校長から「学び合い」を止められているという話を聞いて、その瞬間に昔の苛立ちを思い出しました。
 
しかし冷静に考えると私が法則化で授業している先生がいたら、やはり引き止めるに違いありません。ですから、それは素直な反応なのかもしれません。
 
ただ、私だったらそれを裏付ける授業を若者に見せることでしょう。口でどんなに若者を説得しようとも、押さえられるものではありませんし、それ位の話で、止めるような教師でしたら始めから「学び合い」なんてやらないことでしょう。
 
ただ、考えなければならないことは我々にもあります。学び合い(学びの共同体)の授業を止められたという話は聞いたことがありません。でも「学び合い」の授業は止められたという話は何度か聞いたことがあります。
 
この違いはなんでしょう? 
 
私たちは「学び合い」について説明する言葉を間違っているのかもしれません。人にうまく説明できていないから「教えない」という言葉だけが強調されて、妖しい宗教のような見方をされているのかもしれません。
 
「学び合い」が10倍に広がれば10倍批判にもさらされます。その時に若者はどう対処すればよいのでしょうか?
 
私が出来ることは、淡々と結果をたたき出すことだけです。そのたたき出された結果と姿のみが批判に対抗できる力を持つです。
 
若い教師にとてもすまない気持ちでいっぱいになりました。そして自分のこれからの立ち位置が見えてみたようにも思えました。