子どもを救うこと

たいそうな見出しですが。
 
ちょっと子どもが理科で昆虫の成長の違いについて検索をかけたついでに
非常に不愉快なページも拾ってきました。
(子どもはここに書いてあった3ページの中の2行の文章が欲しかったようです)
 
そのページの内容には、授業の進め方が詳細に載っています。
3年生の理科の昆虫の授業の進め方が書いてありました。
「○○を指さしなさい」
「○○はどれですか?」
「○○はなんと言いますか?」
「これは何でしたか。」
「ノートに絵を貼りなさい。貼ったら○○と書きなさい」
「教科書を開きましたか。開いたら開いたと言いなさい」
 
あれです。これは何の「訓練」でしょうか。
これが授業なのだとしたら、これを授業だと考えるのなら教師としての資質を疑います。こうした授業で、子どもが崩壊した、崩壊しかけたクラスを何度も見ています。そしてその荒れ方にも特徴があります。
 
教師○級。
 
子どもと同じように教師さえもレベルで振り分けられます。そしてレベルアップすることにモチベーションを与えられます。こうしたことに強烈な嫌悪感を感じます。もしも息子の教師がこの授業を持ち出したら間違いなく、転校させます。それくらい嫌悪感があります。
 
だからこそ「学び合い」の導入には慎重に、慎重を重ねてきました。会の広がり方にも警戒していました。もし、「学び合い」の中で学び合い教師○級なんて表現が出てきたら、即日「学び合い」という言葉を封印します。
 
10年前。そうした授業にあこがれ、授業する講師のクラスを私は救えませんでした。当時の自分にはそれを覆すだけの力も、能力もありませんでした。そしてそのクラスは半壊しました。
 
今なら、講師も子どもも救えたことでしょう。当時、研修主任をしながらも何一つ行動できなかった後悔が今の自分の原動力の一つであることはまちがいありません。
 
もちろん、上記のような授業をしていても素晴らしクラスを創る教師もおります。しかし、それは授業でそうなっているのではありません。その教師の人間性を受けて、子どもが付いているのです。しかし、そんな人はどんな授業をしようとも、よいクラスを創られる人なのです。
  
教育とは、授業とは何かを考えず「方法」に走る教師を軽蔑し、そうした授業を受けている子どもに哀れみを感じます。今年も研修主任を受けたのもこんな授業が学校の中で起こらないようにするためでもあります。幸い、今はそんなクラスが無いので安心しています。