「学び合い」と一斉授業は何が違うのか?

大学の研究室は古生物学でした。形態学を学びながら非常にうさんくさいものを感じていました。「古生物」がゆえに、分類も「それホント?」というちょっと眉唾ものです。古生物の「コノドント」がいったいどんな生物であるかも分からないまま、それでもその「積み重ね」から地質の年代同定に使われています。内外の多くの書物では現代の生物の形態学とこれまでの学問に乗っけて「推定」で書きます。「こんな風に生息されていたと推測される」と。
 
こうした古生物学にある種革命をもたらしたのは、物理からみた古生物学です。ノーベル物理学賞受賞者のルイ・アルバレスが地質学者の息子からの相談で、堆積するイリジウムから隕石衝突説を導き出しました。隕石衝突説についてはこれまでの学者から一斉に反論が上がりましたが、今では最も有力な絶滅の根拠となっていることは周知の通りです。(最近でもそれに反する論文はよく出ますが)
 
教育学はどうでしょうか? 統計的な検証があっても脳の定量的な計測は行われていません。(されてたらすんません)最近の脳科学とコンピュータの進歩によって、ある程度外部から脳の状態を計測できるようになってきています。センサーも以前よりも少ない数で計測できるようになっています。それぞれの脳のデータを無線でとばして、集計し、比較すれば「学び合い」と一斉授業を定量的に比較することが可能になることでしょう。
 
いずれそうした分析は行われることでしょう。(ひょっとすると「個」としてはすでの行われているかもしれませんが)問題は、脳科学の側からアプローチしてくるか、それとも教育学者からアプローチしてくるかだと考えます。脳科学からアプローチしてくれば、教育学者は「心」の領域でそれを否定することが予想されます。
 
「教育学からそうした医学やコンピュータ解析に踏み込んで行けたらおもしろいのになぁ〜」息子を風呂に入れながらそんなことを考えてました。