なぜ「学び合い」なのか?

ちょっと、写真フォルダーを整理していたら中学校で理科の授業を
やっていた時の写真が出てきました。
 
ある、女の子が「なぜ雨が降るのか?」について解説している写真です。
彼女は理科が「苦手」と言います。「よく分かんない」そうなのです。
実際にテストの点数は、そこそこですが、彼女の思うほどは取れなかったようです。
しかし、彼女はどの単元でも非常に優秀な実践家であり、科学的な考え方も長けている子でした。
 
直感的に「いい研究者になれる子」だと感じます。
しかし、彼女は受験勉強によって自分の才能には気がつかず、
文系の道を進んでいくことを選びました。
 
教師が、「子どもの才能を見いだしてやる」なんて非常にうぬぼれた
感覚だと思っています。
しかし、少なくとも「学び合い」の授業では、子どもは自分の才能を
フルに発揮できる環境におかれます。
ひょっとすると、彼女は「学び合い」によって理系の道を選んだかも
しれません。
 
もし、もしも教師が人の能力を「極めて制限している」としたら
それは、「罪」です。
私もきっとその罪を背負っていいることでしょう。
でも「できる限り」、「1ミリでも」存分に学べる環境を作って
上げたいと考えています。
 
その実現は、簡単だと思っています。
「制限しない」「ぶれない課題」です。
そして、「強烈な担任の願い」です。

訂正
 「簡単」ではないですね。
 特に「制限しない」は。
 大リーグボール3号を投げるようなもんかな。