みんなでできるようにする 3

jun24kawaさんのコメントに対して。

>そして、多くの子どもが「みんなで」やったと主張したとします。でも、これで課題達成だと分かったら、「みんなで」やったが暴走して、30点の子へのサポー トをおざなりにしませんか?
 
なぜそれで他の子どもへサポートがなおさりになるのかがよく分かりません。「みんなでやったと主張します」という場面が想像できません。それは嫌なものを強勢されたときに子どもが使う言葉だと思います。
 
>「みんなで」というのは「ふり」ができます。しかし、「みんなが」は「ふり」が出来ません。

考えてみてください。学び合いは「ふり」を防ぐための学習なのでしょうか。学び合いが子どもを信じることにあるなら、「みんなが」でも「みんなで」でも、子どもは「ふり」などしないことでしょう。
 
>しかし、「みんなで」を達成するためには、必ずしも「みんなが」を成り立たせる必要はないと思います。

私もそう思います。それでよいと思います。
 

うちのクラスには一桁のたし算がよく出来ない子どもがいます。子どもは一生懸命に教えてくれます。でもすぐにその方法を忘れてしまいます。
それに数時間かければ、毎日やれば「できる」ようになるかもしれません。でも、それは「算数」と言えるでしょうか?
  
 
子どもたちにとっての学習は「みんなができる」ことが目標でしょうか?
そして子どもは出来ない人を出来るようにしてあげることが、学校での役割でしょうか?
「みんなが出来るようにする」は確かに、子どもの連帯感、共有感、感動を呼びます。でもそれは教科以外でも可能なことです。道徳でも、学校行事でも、係活動でも。
「みんなができるようにする」にこだわりすぎて、教科の学習内容が浅くなり、単純化することは「学び合い」の本望ではないことでしょう。

大人の集団の中では、「みんなができるようにする」というのは非常に嫌われます。学校で校長先生が
「先生方みんなが〜をできるようにしてください。出来る先生は出来ない先生にちゃんと教えてね。」これはきつい言葉です。
私たちは何でもできる訳ではありません。でもそれぞれの「よさ」を持ち合わせています。
 
「みんなでできるようにする」は、それぞれの「よさ」を持ち寄る学習です。情報の流通は一方的ではなく、複雑になります。そして、教師はそのよさを最も見つけてあげられる存在です。そして、その見方に子どもは追従してくることでしょう。
 
みんながそれぞれのよさを共感できる。それが成熟した民主主義の社会ではないでしょうか?