「学びの共同体」について

西川先生がその件についてブログに書かれてますし、「宮城の会」でその違いについての質問も出ていたので実践校にいたものとしてちょっとだけ補足します。
 
「学びの共同体」の理念は非常に「学び合い」に近いものです。
学校の在り方、子どもを育てるということ、そして未来像…
 
しかし、そのアプローチは異なります。「学びの共同体」はある意味
スーパーティーチャーであることが求められます。
だって、「テーラーメイド」なんですもの。
子どものすばらしさは「学びの共同体」でも語られます。
じゃあ、どうすればそれが引き出され、絡み合い、そして成果として
出せるのか? それは「経験」「修行」と言われてしまいます。
さらに、一人一人の「学び」に教師が合わせることも求められちゃいます。ある時には、下位の子どもにどれだけ教師が寄り添えたか、なんてことが話し合わされます。寄り添えない教師はダメ教師だと叱られたこともあります。
 
どんな子どもも授業に参加させ、さらに一人一人に合わせ、そして絡ませ合い、そして、それを整理していく……。そりゃ無理です。
 
でも、経験を積めばそれっぽくはできます。
今でも理科10時間分の授業をほぼ9割シミュレートできます。
「ほぼ」子どもの問いと反応を予測し、「ほぼ」その通り授業が進みます。子どもも「追究」する学習です。「ほぼ」ね。
 
でも、それは子どもを手のひらで転がしているに過ぎません。
第一、そんなことを全教科、全時間やってられません。
 
「理科はなぜ難しいといわれるのか」を読んで、(当初は「学び合い」という言葉はなかったと思いますが) 「これだ」と思っても、本当にその意味がかみ砕けるまで3年かかっています。
 
そして「本当の答えはこんな簡単な所にあったのね」と今はそう思えます。
 
今でも、時々「学び合い」からはずれたことをやってるときもあります。
ちょっと冷静に考えて、子どもに謝ります。そして、また理念と理想を自分と子どもに語ります。何よりも授業そのものが楽しいですよね。「学び合い」は。
 
追記
「学びの共同体」でも、「学び合い」と同じような授業をする先生がおります。そうした人を何人か知っています。また私自身が「学びの共同体」を理解できていないのかもしれません。ただ、「学びの共同体」で素晴らしい実践をなされている先生は、なぜ自分の授業がみんなから素晴らしいと言われるのか、言われている先生も、言っている先生もその「理屈」が分かっていないことは確かです。