複雑系と「学び合い」とアリストテレス

アリストテレスは「全体とは、部分の総和以上のなにかである」と言います。人がまさにそうであることでしょう。生命は免疫系にしても伝達系にしても非常に複雑な相互作用で成り立っています。そして人の考え方もまた複雑です。行動が考えと一致しないことは私たちの日常にありふれています。
 
これまでの授業は、どちらかというと還元主義的な道を進んできたのだと思います。「原理」「原則」「型」「方法」… こうした多くの考え方や実践に教師は縛られてきました。でもこれは人がどのようなものであるのかを考えずに行われてきたものだと思っています。
 
どんなに突き詰めていっても、法則を働かせても、同じ授業は二度とできません。たばこの煙の拡散が再現できないように、人もまた二度と同じようには動くことはありません。
 
私は「学び合い」とは複雑系そのものだと考えています。教師という「部分」がコントロールする限り、各個の総和以上の振る舞いは起こりません。むしろ引き算かもしれません。

今日の「一つの花」の授業で子どもの振る舞いを見て、そう感じました。
(まあ、もうちょっと「読み取り」がんばって欲しいんだけどね)