カタストロフィー

正直いうと日本にとっての教育改革なんて、カタストロフィーが起こらない限り、実現しないだろうと考えてきました。そして現時点でもかなりの部分でそう思っています。歴史的に見ても日本人はそうした世の中の変化に対しても柔軟に対応できる民族でもあるから(かつてアインシュタインがそう述べたように)教育の改革よりも、政治・経済の大きな変化の方が先だろうと考えています。
 
学び合うことが人としての本能であるならば、なぜ、数千年(数万?)の歴史の中で世界中の教育がその方向に流れないのかを疑問に思っています。エントロピーのようになぜその安定した方向へ流れないのか? それとも相転移のようにある一定の状態になったときに起こり始めることなのか? 
 
そう思って、多くの哲学書を検索するとソクラテスの時代から、学び合いの効力について記述されています(もっと昔からあるかもしれませんが)
 
「学び合い」ではないかもしれませんが、フィンランドは短期間で教育改革に成功した国なのは周知の通りです。「なぜ成功したのか?」その分析は世界中の学者が分析しているでしょうが、日本ではどれもここ数年で実現できることは何一つありません。「フィンランドメソッド」なんてドリル帳が出回るくらいのあほらしさです。
 
さて、グダグダ書いたのはここからです。息子が誕生して、傍観者のように語っていることはできなくなりました。少なくとも親として、子どもの未来を作っていく義務があります。何年も前から予測していた状態に世界はなりつつあります。今の世界経済をきっかけに、また教育は大きな転換期を迎えることになるかもしれません。そういった意味で今の世界経済の状況を見守っています。そして、それが(これからの教育が)正しい方向に向くように、理論と実証を蓄積していかなければならないことでしょう。
 
今は一人の上司にさえ、理解させられない自分が歯がゆいのですが。