物語の学び合いについて

公開に向けて授業案の添削をお願いされました。
「A4で1〜2枚程度で」と話したつもりでしたが、
立派な5〜6枚の指導案が出来てきました。
 
人に見せようとどうしても自分の「いいわけ」を作りたくなります。
 
自分は、こんなに教材の研究をしてきました。
こんなことも考えています。
こんなこともとらえさせたい。
評価基準はこんなに細かく設定し観ています。
 
細かく書けば書くほど、指導案との整合性を問われていく授業になります。むしろ授業案は「自分だけ」あればよく、観る人も指導案など観ない方が授業がよく見えるはず(見られるはず)です。
 
さて、本題です。
 
授業案を読んでいくと、どうしても教師の意図が出てきます。
この登場人物に焦点化したい。
こんな気持ちを読み取らせたい。
こんなところに着目させたい。
 
しかもそれを丁寧に、1時間ごとに場面を設定し、
「そこまで」しか読ませない学習指導をしています。 
 
「学び合い」をしているならば、教師の読み取れる範囲など、
(指導案に書ける範囲など)たかがしれていることが分かります。
よい文章は(よい物語は)ただただ読み取らせていくだけで、
教師の想定する数倍の読み取りが生まれてきます。
 
「教師が読み取らせたい」ことを臭わせると、子どもはそこに合わせて
先回りして読み取っていくだけです。
「学び合い」での読み取りは、もっとラフで自由に読んでいくことを
お勧めしています。