『学び合い』について

昨年、今年と2年『学び合い』フォーラムに参加させていただきました。この5年ほど距離をおいていた僕も、多くの方々にお会いでき、またそうした方々が素晴らしい活躍をしていることに嬉しく思いました。

ここで改めて『学び合い』について僕の思うところを綴ります。僕が『学び合い』から距離を置いたのは「責任の重圧に耐えられない」ということです。『学び合い』がどんどん広がるに連れ、理論どおり授業が進まないという事例が多くなってきます。まあ、これはどの実践(例えばかつての法則化のように)でも起こって当然のことですから、仕方ないことなのです。しかし、法則化の授業がなぜ衰退していったのか(その理由を向山さんはきっと分かっていなかったのだと思うけど)と同じように、『学び合い』の授業がなぜうまく行かないのかをきちんと理論立てて説明し、広げていかなければ、いずれ法則化と同じように批判が広がり、いずれその実践は消えていくことになります。

そして、最も大きな問題は『学び合い』の授業で学級が崩壊し、または友達関係が酷くなり、仲間を恨み、教師を恨む子ども、担任の『学び合い』をやめて欲しいと願う保護者、そんな教室を見て全力で止めさせようとする管理職が少なからず、いるという現実です。この状態に「一人も見捨てない」という言葉がどれだけの価値を持つというのでしょうか。理想に酔いしれているとこうした現実が見えにくくなりますし、そしてそれは、次第にその教師個人の問題だと切り離され「しかたがない」とそれこそ「見捨てられて」いくことになるのです。想像してみてください。この10年ほどで『学び合い』を始めて、一体どれだけの教師が実践をやめたでしょうか?

「そんなに『学び合い』を批判したいのなら、グループから出て行って欲しい」という書き込みもあり、僕の役割はないのだなと距離を置くことにしましたが、上に書いたような思いもあり、昨年は「『学び合い』はなぜうまくいかないのか」というテーマで、フォーラムの分科会を開きました(実践がうまく行っているような人ばかりが集まってしまたのだけど(笑))

みゆき会では、高橋さんの課題設定の話、古田さんの「任せる」「委ねる」の話を始め、クリティカルシンキングをずっと続けてきました。今の『学び合い』に必要なのは、こうしたクリティカルシンキングなのです。なぜうまくいかないのか、なぜうまくいくのか、なぜ長期的に持続するのか、そのレベルの対話が必要なのです。理論や実践の素晴らしさだけでなく、つねに批判的視点を持つこと、これが実践者の正しい姿ではないでしょうか?

なぜこんなことを書きたくなったのかって? 
やっぱり木村素子さんの影響ですね(笑)