教師とは?

教育というものは政治やイデオロギーからもっとも切り離されるべきもので、理由は言うまでもなく、その対象が子どもであるからです。こうした政治的なものや世論からも中立であると同時に教師は「自立的」であることも要求されます。
 
69年前の出来事を考えれば、教育の持つ強大な力を理解出来ない人はいないことでしょう。だからこそ、私たち教師はどの職業よりも中立・自立的なければならないのです。そのためには、私たち教師自身が自立的に仕事をしていかなければなりません。
 
しかし、現実はどうでしょう?
 
今の教師は「自立的に考えること」を求められていません。
 
「いや、そんなことはない」
 
そう思う方もおられるかもしれませんね。でも多くの教師はそう考えてはいないことでしょう。
 
まず教科書も誰がどのように決めたのか、その理由も示されないまま我々は教科書を使っています。先進国の多くは教科書の採択はもっとミクロな単位で現場の教師が採択してます。日本では自治体ごと、または複数の自治体ごとに教科書が採択されます。「誰かが決めてくれている」ので、私たち教師には「どの教科書が最もよいか」「この教科書をぜひ使いたい」という考えがありません。この区域で決められた教科書をただただ使うだけになっているのではないでしょうか?
 
さらに我々教師は、授業のことを考える、準備する時間もありません。ただ多くの教師は、あらかじめ決められたことを、決められた通りにすることことが仕事だと思うようになってきているので、創造的なカリキュラムを構成するような「手間のかかる」ことはやりたがりません。また、こうしたことを検討し、議論することも「面倒な仕事」だと思っているのではないでしょうか。でも、教師って、それが仕事ですよね。
 
教師の仕事は今、どんどんシステム化してきています。「誰でも一定水準で、均質的な教育ができるように」と。もちろん、教師を育てるという意味でこれらを間違いだとは思いません。しかし、これらが行き過ぎてきたことで、自立的にならなくても(よく考えなくても)教師として仕事ができてしまうのです。むしろ勝手なことを考えて、勝手な意見を言うものは、邪魔なのです。自立なんて考えずに言うことを素直に聞いて、実践してくれる素直な従業員が求められています。
 
このように今の学校の全体的な動きをみると、学校がどんどん「商業化」していることに気がつきます。PDCAサイクルSWOT分析(本来の意味で使っているようなところはほとんどないと思うのだけど)なんていう言葉を使いだしているのも、そうした流れの中にあるのではないでしょうか。
 
教師がまるで、ファミレスや居酒屋(誤解を招かないようにいうなら、粗悪なファミレスや居酒屋)の店員のようになっていくんじゃないかという心配があります。そして、僕が感じる今の学校はまさに、そうした店舗になりつつあるように思います。だから僕は「教師とは何か?」「授業とは何か?」をずっと問い続けます。
 
追記
こうしたことを書くと「自分は違う」「いや、自分の学校ではもっとみんな(教師集団)で考えている」と思われるかもしれません。もちろん、そう思えるのならとても幸せなことだと思います。