内省する力

生意気かもしれないけど、僕は僕の「目(舌)」を絶対的に信じています。
 
僕は毎日授業をし、それを内省しながら分析してきたからです。
その実践量は「たまに」とか「時々」とかではなく「毎日」です。
それも一日中。
 
この膨大な蓄積から導かれることは、教育を「悟る」ということへの一歩一歩なのです。
僕が今でも、古いものを捨て何のためらいもなく次を取り組めることができるのは、
強力なリフレクション(内省)を行っているからです。
 
これを飲食店に置き換えてみます。
商売をしてお店が潰れないようにするためには、お客が満足するようなお店にしなければなりません。教育学者とは、そうした店主(料理人)に適切なアドバイスを与える、アドバイザーのようなものです。顧客の望んでいることから、調理方法、そして盛りつけ、さらには接客態度まで、事細かに説明してくださいます。そのアドバイスがあることで、若い店主や調理人も、それほど苦労することなく、お店を切り盛りすることができることでしょう。
 
でも僕はそうした料理人でいるのは嫌です。自分で作った料理の味を見て、更なるうまい料理とは何かを考え続ける料理人でありたい。僕は、毎日よりおいしいものを考えています。時に調理方法をいじったり、材料を大胆に変えたり、他の人の作る料理の味をみたりします。取り込めるものには貪欲で、取り込めるものは自分のレシピの中にどんどん組み込んでいきます。
 
だめな料理人がそれをやると、当然味は破綻して行きます。でも僕はそれを舌で正確に確かめることができる。僕に取っては「よりうまくなったかどうか」が判断の基準で、そこそこおいしいのには全く興味はありません。僕が「アダプティブ」になれるのは、その味見を研ぎすませてきたからです。
 
僕は、教師とは「考える料理人」のようなものだと思っています。考えること(味の向上)を止めたとき、教師としての成長が止まったといえるでしょう。優しい仲間は、自分の料理を「(そこそこ)おいしいね」を言ってくれることでしょう。でも、本気でおいしいと思ったら、その仲間には嫉妬が生まれていくことになります。こうした意味で、教師は本当に孤独なのです。本気で突き進むには、自分の作った料理を自分の舌でとらえ、そして更なる向上を目指していかなければならないのですから。
 
それでも、僕は教師は面白い仕事だと思います。その孤独に見合った子どもの成長を見つめることができるのですもの。
 
教師の自立。僕は今、ここを見つめています。