インタラクティブカリキュラム

みゆき会スペシャルまで半月ちょっとになりました。今回の中でもどうしてもインタラクティブカリキュラムの話は欠かせないものとなることでしょう。

僕ははっきり言うと方法論ありきで教育を語る人に興味はありません。もちろん、方法論そのものを否定する訳ではありませんが、「◯◯すれば◯◯できる(なる)」でどれだけたくさんの人が失敗しているかよく分かるからです。方法は教師を超えることはないからです。
 
そんな僕らがインタラクティブカリキュラムというカリキュラムについて、なぜ話をするのかというと、方法という枠を超えた可能性を秘めているからです。そう感じるのは、表面上それが「見えない」からです。だめなカリキュラムほどはっきりと分かりやすく、見えやすいものです。ゴテゴテしていて装飾に満ちて、複雑です。ですから、続きません。「ある単元では出来ても次の単元ではできない」とか、「昨年はできても今年ははできない(やる気が起きない)」とか、「構成を組むのが面倒だ」とか、面倒なものは次第にやらなくなってきます。毎日食べられるような、ごはんとみそ汁のようなものでなければならないのです。
 
すぐれたカリキュラムというのは「見えない」のです。そして「無駄がない」のです。極めて削ぎ落とされているから、子どもの学習も派手ではないし、授業を見ている人も気がつきません。教科は融合されているけど、授業は極めてシンプルで、通常通りの授業です。でも、その積分された成果は圧倒的になっていきます。僕のクラスでも1学期の成果が集積されてきていますが、2学期は理論的にはその2倍は量的にな成果をあげることは可能ですし、このフォマットを子ども自身が使いこなし始めています。そして、ここから分かることは、インタラクティブカリキュラムというものが単に「変わったカリキュラム」なのではなくて、学校教育として普遍的なフォーマットである可能性があるということです。みゆき会の古田さん、高橋さんらの実践は極めてシンプルで、素晴らしい実践を繰り広げています。それも「毎日」ね。
 
ただ面倒なのは、これを文章にしたり、写真や映像で見せたりしても極めて分かりにくいということです。通常の授業の公開では、インタラクティブカリキュラムについては取り上げることをしません。なぜなら「どうせ分からない」からです。どうせ説明しても「キョトン」とするだけです。なぜなら、授業の「部分」を切っても「全体像」は見えないからです。みゆき会では20人という人数に参加者をしぼりました。この意味が分かると授業は静かに激変します。僕に取っては『学び合い』に次ぐ大きなブレイクスルーなのです。