この7年間で学んだこと

本校では7年間勤務し、4月からは新しい学校に赴任することになりました。
さて、この7年間は自分の教師人生にとって最も大きな転換期だったのではないかと考えています。この7年間を振り返ります。
 
まず、最初の3年間は『学び合い』を校内に広げ、『学び合い』による授業、そして学校作りに励んできました。研究公開も行いましたし、市内の研究推進校としても研究を進めてきました。赴任した最初の学年の子どもたちも、協同学習により子どもたちの関係の修復にあたり、何とか無事に卒業させることができました。ただ「学び合い最高!」という当時の子どもの言葉に何か違和感、そしてそこに隠れた不安を感じたのも、この最初の1年目でした。
また、当然ですがこれまで「学習=授業をいかにうまく教えるか」という実践を積み重ねた先生方からは、疑念の声や時には反発をいただくこともありました。特に1年目の校長は授業=技術でしたので、協同型の学習を理解していただくのには大変苦労しました。それでも、こうした協同型の授業に賛同し、実践の中で結果を叩き出せる優秀な先生方に恵まれたおかげで、先ほどの校長先生も最後には「授業は学び合い型の学習でなければならない」と言うほどにまでになりました。
 
そして、震災。
3年前の東日本大震災は、教師としての立ち位置、そして学校とは何か?という答えを私も求めてきました。私はこの震災がなかったら、もっと視野の狭い、そしてもっと愚かな教師だったことでしょう。無我夢中で、この震災からの出口を模索し続けてきたこの3年間を振り返ってみると、この震災があったからこそ、成長出来た自分がいるのだと実感します。
 
そして後半の3年間は『学び合い』からは一歩抜け出し、僕でなければ出来ない授業を模索し続けてきた期間でした。これまでは、自分の授業を広げようとか、自分の理念を伝えたいという野心に燃えていましたが、僕にはそんな力はなく、そんなことをやることも僕の天命なのではないと思えるようになりました。自分は変革の流れの中の一つとして、自由で自分のやりたいことをやりたいようにやることこそが天命なのだと悟りました。
そうなると、自分の学校でも先生方の授業を批判するのではなく、それぞれのよさを持ちより、そして、大きな流れとして統合していくことで、子どもを成長させていけばよいのだと考えるようになりました。きっと震災があったからこそ、こうした考えができるようになったのでしょうね。
 
今の僕は極めて自由です。構えも型も必要なく、極めてアダプティブです。安っぽい正義を振りかざしていた以前の僕からすると、ずいぶん楽に教師人生を送ることができるようになった気がします。子どもと同じように、僕もまたこの「学校」で成長してきたんですね。僕を成長させてくれたのは、同僚であり、そして子どもたちであり、保護者であり、地域の方々であり、そして何よりも学校という「場」なのです。そうした学校に恵まれたというのは本当に幸せなことですね。僕は心から感謝の気持ちを持ってこの赤木小学校を去りたいと思います。