教育の責任

福島第一原発事故の責任はどこにあるのか?
 
それを誘致した人も、それを受け入れた人も、それを建設した人も、その設計をした人も、その責任は曖昧なまま、結局は誰の責任にもならないような仕組みになっています。東京電力は賠償金を支払うという形での「責任」は持っていますが、「誰」が責任を取っているという訳でもありません。
 
では子どもの勉強の責任はどこにあるのでしょう?
 
学校は、教師はとてもうまくその責任を回避する手だてを取ります。
宿題のチェック
音読のチェック
分からないところは家庭でも教えてください
 
こうしたことが家庭と学校との連携という大義名分のもと行なわれれています。僕はこうした取り組みを全て否定はしませんが、その結果が
「保護者がちゃんと家で宿題を見て上げていない」
「家庭での学習がきちんと出来ていないから勉強がだめなんだ」
という話になるのであれば、子どもが勉強することの責任を回避しているとしか思えません。
 
僕は学校の学習はやっぱり教師の責任なのだと考えています。もちろん、保護者、そして子ども自身の責任もあります。でも保護者も子どもも責任を負わなければならない場合というのは、それそれが学校の教育に参画できるている場合のみです。今の学校の多くはそのほとんどの権限を握り、そして行使しているのです。
 
教育の責任はやっぱり教師なのです。だから教師である限り、悩み、そして苦しみ、そして壁を乗り越えなければならないのが使命なんです。そういう意味では本当に大変責任が重い職業なのだと思います。
 
子どもの勉強の様子を見るたびに「もっと自分に力が合ったら」「そう思わずにはいられません。きっと僕は退職する前の日まで、いや退職してからもずっと後悔をし続けていくのでしょうね。でもこれが教師という仕事なのだと思います。