任せるということ

僕が学びの共同体で授業実践していた時、
「教科によって学び合いが成立しにくい」
「研究校でもうまく実践できている先生は少ない」
この2つの壁について、うまく説明せきませんでした。

僕も研究校で4年目を迎えるくらいには、理科の授業なら誰に見せても恥ずかしくないレベルに達してた自信はあったけど、他の教科でも、特に国語の授業をみせられるかというと、とてもじゃないけど自信はないし、そして実際にひどいもんでした。

一方、同僚の先生の授業は、僕も惚れ惚れするくらい素晴らしい授業で、彼の授業とどう違うのかが分かりませんでした。僕はどちらかというと理詰めで考えていくタイプですから、その秘密を解き明かしたいと考えていました。
 
僕がそれを発見したのは『学び合い』に出会ってからです。「最後のピースが見つかった」のです。答えは簡単でした。「任せる」でした。答えは誰もが知っていて、そして誰もが知っていないものでした。
 
学びの共同体も子どもも一人の学び手として、授業をともに作っていく大事なパートナーと考えます。でも多くの学びの共同体の授業では、子どもが教師を先読みして、教師の意図を汲み取ろうとします。ですから課題設定が少しでもぶれると、子どもと教師の間にギャプができます。僕が理科以外で必ずしもうまくいかなかったのは、この課題設定にありました。
 
授業のうまい同僚の先生は、その課題設定においても「子どもの力を活用して」いました。僕の授業は「活用しているように見せかけて」いました。ここに大きな違いがありました。僕が活用しているように見せかけた(あたかも子どもから課題設定が生まれたようにね)のは、強烈な教材研究で子どもの思考ルートを全部先読みして、準備し、対応できるようにし、授業にぶれを起こさないようにしたからです。ところがその授業のうまい彼は、それを子どもにぶん投げても、それを子どもの力で再構成し授業を行っているのです。
 
『学び合い』の授業で分かったことは、子どもの学び方の質的変化です。子どもが僕を先読みしないで、子どもが自分の関心で課題に取り組むのです。そこには、教師に「任されている」という信頼関係があるのです。授業のうまい彼は、子どもたちに任せられる教師だったのです。それが僕が5年かけて発見した事実でした。
 
任せられた子どもたちは、どの教科でも、一日中、ただただひたすら勉強します。多分僕のクラスを丸一日参観するとびっくりすると思います。教科によってもそのぶれが全くないことに。
 
でも多くの教師は子どもに任せることはできませんし、そんなことしようとも思いません。
次回はもう少しこの部分を掘り下げてみたいと思います。