僕は何をやっているのか 最終回「アダプティブ戦略」

僕は何をやっているのか。
 
僕は以前から言っていたように、学びの共同体で分からなかった最後の鍵を『学び合い』の中で見付けることができたのです。これはブログでも何度か書いてきたと思います。僕の授業は学びの共同体の一つの完成形だと自分では考えていました。『学び合い』の理論も理念も共感できるものの、実際に展開される授業を観ていくと、教師によってのゆらぎが大きすぎて安定化しない暴れ馬のような感じがします。
 
僕は数年前から「型」というものを少しずつ削っていきました。この取り組みの大きな目的は、授業は何によって規定されるのかを見付け出すためです。教師としての技術を一つ一つ剥ぎ取っていく。まるで教師として素っ裸になるようなものです。素っ裸になって分かったことは、授業というのものは「教師の意志」簡単に言うと「勉強しなさい」という教師の姿であることが分かりました。「そんな馬鹿な!」と思われるかもしれませんが、僕と古田さんの行った実践でその結論に達しました。教師なら誰でも子どもに「勉強しなさい」と考えていると思うでしょうが、実はそうではありません。そこにゆらぎあがることで、教師のちょっとした行動、言葉、そして授業そのものに出てきます。まあ、このことについては機会がありましたらまた書きたいと思います。
 
この型を取り払うという実験がもう一つ新しい実践を生みだしました。型をなくしたことで、子どもの状況に合わせて新しい実践をどんどん生みだし、それを淘汰しながら、授業をしていくというスタイルです。子どもの状況を分析しながら、最善と思われる一手を出し、効力があると判断できれば最大パワーでそこに投資する。効力がない、効力が低いと見れば、停止して廃棄するか、改良を検討する。つまり「アダプティブ戦略」です。
 
小学校だと担任によって子どもの育ちに大きなゆらぎがあります。同時に子ども集団の性質や特性も異なります。しかも毎回。その子どもたちにどんな取り組みをすれば最も効力が上がるかは、ぼくは「やってみなければ分からない」と考えます。分からないから、その時代や子どもたちに合わせて、どんどん新しい一手を打ち、淘汰させていくのです。
 
そして、これを可能にしたのが、状況分析の力です。教師の最も重要な力は何か?と問われれば、僕は授業を観る力と子どもを看る力と言います。
 
僕はそこに失敗したことを素早く対応し、次にステップアップさせるという手法を取り入れました。三谷さんは「アダプティブ」は進化を促す言葉であり、「変異と淘汰によって起こる非連続的でダイナミックな適応」としています。
この取り組みによって、昨年はインタラクティブカリキュラムが生まれました。また、以前の子どもたちでは効力が発揮できたことが今の子どもたちでは発揮されないこともあり、そうしたものは停止し、その子どもたちに合わせた実践をしています。以前に授業を見に来ていた校長に「子どもたちに合わせて授業形態を変化させてきたね」と言われたこともあるように。こうして現在も変異と淘汰を繰り返しながら子どもの学びは変異してきています。
 
ただし、この授業は誰でもできるとは思っていません。授業を分析し判断する力、そして即座にそれを廃止、または軌道修正できる力、そして効力が表れた部分に多くのリソースを投入できる柔軟さ。これらが揃ったときに始めて成り立つ授業でもあります。でも毎日悩みながら、そして新しい発見をしながら授業そのものを楽しんでいる自分がおります。
 
僕はどの教師がどんな授業実践をしているかにあまり興味はありません。ましてや以前のようにそれを批判しようとも思いません。それぞれがそれぞれの正義の基に授業を行っているのですから。僕の役割は、僕の授業を追従する人を育てることではなく、緩やかに教育の方向性を指し示すことだと理解しています。
 
今回の話の中に出てきた実践も、出てこなかった実践も全てが間違いなのではありません。そもそも間違いなどというものはないのです。大事なのはその実践を通して、子どもをどんな未来へと導いていくのかというビジョンを「意識」していくことなのです。そう考えるようになってから自分という人間ができることの可能性と限界がよく見えるようになりました。
 
何度も書いてきたように緩やかな改革は始まっています。それはどんなに引き戻そうとしても、引き戻せません。僕もその緩やかな改革の潮流の小さな小さな一つであり、でもそれが大切なのだと考えています。
 
(終わり)