僕は何をやっているのか その2「方法なのか人間なのか」

僕は教育史のことはよく分かりません。ですから僕が現場に立ったころ(20数年前)に見えてきた景色から、今日までの教育について、僕が知っている部分で話しをしていきたいと思います。
 
※「そこは違うんじゃないの?」とか「もっとこんなのもある」と思われる方もいらっしゃいますでしょう。不勉強ですんません。どうぞその賢さで補正してお読みください。

 
 
「方法なのか人間なのか」
 
戦後の混乱期から抜けだした日本の教育は、まず学習や知識の体系化が行われました。例えば算数の水道方式などは、非常に細かく四則計算をスモールステップ化し、まさに「水源から水が流れ落ちるように」子どものつまづきをどの教師でも分かり指導できるようにしました。これは今でも「公文式」でその指導の流れをたどることができます。同じように各教科でも、分野別に知識を体系化していくことで「どの子どもで分かり安く」学べるように考えられてきたと言えます。
 
その後、そうした知識に偏った授業は批判されていくこととなり、子どもの「思考」を取り込んだ授業が行われていくようになります。理科の仮説実験授業などや算数の問題解決型授業なども、知識の教授から子どもの思考を組み込んだ授業になってきたと言えます。単純に答えを求めることではなく、子どもに考えさせ課題を解決していく授業は次第に広がりをみせ、小学校ではそれがスタンダードな授業スタイルとなります。
 
また、同時に授業による子どもの分析も盛んに行われるようになりました。授業分析も盛んになり、量的分析や質的分析なども授業研究の中でも重要視されてるようになりました。こうしたことを分析していくことで授業のよりよい指導方法を極めていくというものです。授業がうまくいかない原因は、授業の指導方法にこそ、その原因が隠されていると考えて、プロトコルだけでなく、ビデオによる記録なども盛んに行われるようになりました。(笑い話ですが、その昔は子どもの座席表に一人一人の子どもの状況を書き込んで、授業の半分以上の時間を授業者がその書き込みに使うなんていう研究スタイルもありました)
 
一方で授業は一つの突き抜けた方法論へと広がります。それが「法則化運動」です。授業がうまくいくためには「コツ」があり、それを集約していくことで誰でも授業がうまくいくようになるというものです。このころから「必ずうまくいく」とか「○○のコツ」という教育書が増えてきたように思えます。
 
しかし、こうした方法論は次第にほころびを見せていくことになります。その方法通りに授業をするのだけど、うまくいかない。うまくいくはずなのに子どもがはじけてしまう。どんどん授業は精錬されていくはずなのに、それどころか安定しないのです。
 
笑い話があります。以前S先生が、小学校の教科研究会へ参加しない先生に「どうして行かないんですか?」と聞いたら「馬鹿だな。何十年も研究して良い授業が見いだせるならもうとっくにいい授業がみんな出来るようになっているはずだろ? そうならないのは意味がないからだよ。」と述べたそうです。これはある意味本質を突いている話しですよね。教授法が生まれては廃れていくのも教授法には限界があることを示しているとも言えます。
 
僕が学び合いの授業に邁進していくことになるのも、実は法則化でぶっ壊れた学級を何度も見てきたからです。授業とは、方法を研ぎ澄ませばよいといった、そう簡単なものではないと我々教師は気づかされることになったのです。
(つづく)