なぜ勉強するの? →答え:おもしろいから

何度も書いてきたけど、若い先生に向けて定期的に書きます。
 
シール、ビー玉貯金、カードなどなど。
僕は極力やりません、使いません。
シールなんてこの20年間で2〜3度買っただけです。
 
よく「こんなシールもらえるって思ったら子どもも喜ぶよね」なんて会話を聞きますが、「シールないと勉強しないのかしら?」と思います。裏を返せば「つらい勉強」をよくがんばったご褒美とも言えますよね。
 
また、ビー玉貯金のように何かよいことをしたらみんなでビー玉を一つ入れる。「入れ物がいっぱいになったら、お楽しみ会をしよう!」なんていう取り組みもよく聞きます。そもそも良いことをすることの目的は何でしょう? もう少し突っ込むならば、そもそも良いことって何でしょう? ひょっとすると一見良いことに見えても、それは実は相手にとって悪かも知れませんよね。
 
カードも同じです、僕のクラスには持久走記録のカードはありません。チームみんなで走っているので、基本的にみんな同じ記録なので必要ありません。カードがないと目標が見えにくいなんてうそです。教師が目標タイムを段階別に子どもたちに示せばいいんですから。
 
なぜ学校で子どもは学ぶのかというと、僕は「それは楽しいから」であって、教師のこざかしい仕掛けなんて必要なのです。教師自身が学ぶことが楽しければ、子どもはその楽しさに引っ張られていきます。ですから、教師にとって最も大事なスキルは「(教師自身が)楽しそうに」授業できる力です。
 
子どもにとって知識とは断片的であり、一方的であり、時系列がぐじゃぐじゃです。子どもが学ぶということは、知識が結合し、双方向になり、時系列に揃うということです。でも人はそうなったときに、脳からおそらく快感物質が出てくるのでしょうね。楽しんです。勉強そのものが。
 
僕もいい加減な授業をやっていると、子どもを「自分の」目標で縛りたくなります。うまくいかないと別の目的に置換してしまおうとする自分がいます。若い先生なら、そして幼い頃の自分がそうしたこと(ご褒美)でうれしかった経験があるならば、なおさらそうしたくなることでしょう。
 
でもそれは幻です。ウソだと思うならやり続けてみてください。間違いなくあなたの思うような子ども集団の姿にはなりませんから。理由は考えてみてください。
 
勉強の理由は「快楽」です。知ること、分かることが楽しいから学ぶのであって、教師のこざかしい小手先の技なんてほとんど関係ないのです。