共同学習に何が足りないのか

今日は近隣の学校の授業公開に合わせて、ぜひお話を聞かせて欲しいという県外の先生からお声をかけていただき、1時間ちょっとですが話をさせていただきました。その振り返りをまとめたいと思います。
 
授業、とりわけ共同学習をするためには大きく2つの絶対に外せない要素があります。一方については、これからちょっとした執筆に取り組む内容とかぶるので、目に触れられる形になった後で説明したいと思います。もう一方の話は共同学習をする人にとっては少し耳の痛い話だと思います。今日はそんな話。
 
「学ぶ合う」という授業に、「子どもだけ」で学びが完結するということはありません。僕が『学び合い』の実践を行っていた時にもそれは出来ないし、そうしようと思ったこともありません。教室という空間には教師と子どもがいて学習する空間を形作っているのですから。
 
子どもが学び合う学習では「教師」というファクターが小さいように思えるかもしれません。僕のこれまで1万時間を超える実践でいうならば「逆」です。教師というファクターは、教師対子どもで行う授業(あえて一斉とは書きません)よりも何倍も大きいのです。
 
始めはうまく子どもが学び合うのにすぐにグダグダになっていくのは、ここに問題があります。子どもの学び合いを成立し、維持していくためには子どもの状態を常に把握しそれに対して子どもにフィードバックできる力が必要です。この力がないのに、子どもを学び合わせるのですから、子どもにとっては、何をやっているのか、自分が分かっているのかよく分からないような状態におちいることになります。
 
最悪なのはこうした揺らぎを防ぐために、課題設定を下げて誰もが学び合っているような「状態」を作ることです。課題設定のレベルを下げれば、簡単なのですから、そりゃ誰でも話し合います。でもこうしたことをやり続けることで学力は上がりませんし、何より簡単だって知っているのは「子ども」ですから、次第に関係のないことをやり出します。授業中に別の本を読んでいるとか、無駄話しているとか。よくそんな姿見ません?
 
共同学習では、教師←→子ども←→子ども←→教師の三角形を成立させなければ成り立ちません。(教師と教師を頂点で結んでね) つまり難しいんです。だからこそ「上質な授業」をたくさん見て、教師の動きと子どもの変化を追っていく必要があるのです。言葉は悪いけど下手な授業を観ても、教師の役割を理解していない人と対話を重ねても、身につくものはありません。
 
若い先生は特に、そうした力のある先生に授業実践を見せてもらい、対話を重ねた方がよいでしょう。熟達した教師は、共同学習の難しさ、そして教師の役割の大切さを身をもって感じていることでしょう。そうした人から「濃密に」学ぶべきです。この濃密な時間を共有できた分だけ理解が進むことでしょう。
 
僕は共同学習はもっと簡単にできるもので、誰にでもできるものだと考えてきましたが、自分が実践するほど「そう簡単じゃないよね」って思えるようになってきました。
 
これは僕が考える共同学習を成立させる要素2つのうちの1つです。