部活動

どうして日本の部活動っていつも「勝ち負け」なんでしょう?
 
おそらく高度成長時代、当時を代表するアニメ「巨人の星」や「アタックNO1」は経済的先進国に追いつき追い越せのという日本全体の雰囲気が努力や根性で強靱な相手に挑み、成果を上げていくという日本人の願いとオーバーラップそのものだったのかもしれません。(だから今、インドでは巨人の星クロケットだけど)のリメイクが放送され人気を呼んでいます)
 
でも日本は経済的にも世界で豊か(所得ではね)な国になり(今貧困層が増えているといえども)っています。そしてこれからは高齢化と少子化が劇的なスピードでやってくる縮小化の時代に突入してきています。
 
そんな中でも日本ではマイナーなスポーツもさかんに行われるようになり、国民がスポーツを「楽しむ」という時代に変化しつつあります。そのなかで学校の部活動はどう変化しなければならないでしょうか?
 
学校という「看板」を背負い、戦いに勝ちがあがっていくことに価値があるというモデルはもう古いのではないでしょうか?
 
スポーツの語源は調べてみるとラテン語から始まり、フランス語の「desport=気晴らしをする、遊ぶ、楽しむ」という言葉から今のsportという言葉に変化してきていると言われます。
 
私たち学校の部活動は、本当にその目的が、気晴らしであり、遊びであり、楽しみになっているのでしょうか? 
 
それは文化部でも同様です。「〜の甲子園」という言葉が盛んに用いられ何でも全国大会に出場し、勝つことが「目的」になっています。
 
そもそも学校教育においての部活動とは何でしょうか? 本来はどんなに運動の下手な子でもまわりからのバックアップがあって運動が楽しめるためのものであり、運動が得意な子が力一杯に努力できる場であり、いろんな種類のスポーツに参加できる場であるはずです。
 
また郡山市は音楽コンクールの全国大会常連校がそろっており、おそらく日本一コンクールのレベルが高い都市だと言えます。でもその部活動は「自校の音楽教育にフィードバックされているか?」といえば、それらが十分に校内に生かされるような(それは例えば合奏部の演奏で1年生が歌を歌うとか、日常的にアンサンブルコンサートを開くとか)取り組みはな不十分だと言えます。コンクールに参加する、そこで戦うことに疲れてしまって本来の「楽しむ」という大事な部分に踏み込めていないのではないかと感じています。
 
私は小学校低学年の音楽の成績は「1」。でも、5年生の時に担任に合奏部に誘われたことから成績は「4〜5」になるほど、音楽を楽しめました。そうした可能性があるのだからこそ、子どもたちが自発的に運動も、音楽も楽しめる(それはどんなに下手であろうとも)ような部活動のデザインを私たち教師は作っていかなければならないのだろうと思います。