いじめ問題について

やっぱり書かないとならないのでしょうね。普通の人とはちょっと違う視点から書きます。
 
私は「いじめ」って人間の持っている本質だと考えています。というよりもほ乳類など高等な動物であるほど持っていると感じます。ニワトリの順位は生物学を履修している人ならば高等学校で学んだはずです。そのため、慣れている教師ではれば、飼育小屋に入る子どもにはニワトリのボスに蹴りを入れさせるようにします。同じように学校で以前よく飼育されていたうさぎなどもよくやります。順位の低い者は大抵死ぬまでつつかれたり、かみつかれたりして死んでしまうことになります。
 
人間も教室というあの味も素っ気もないような閉鎖的な空間で密集状態に置かれれば本質的に弱い者を排除し、順位を確かめようとしているのではないかと考えちゃいます。
 
じゃあ「仕方がない」のかというとそうでもありません。人間は教育という力で、他者と協同性を保つことができると考えているからです。これは人間だからこその能力だと考えます。
 
しかし、多くの学校では子どもたちはむしろ逆のベクトル(そう本能を呼び覚ましちゃうような)に向かわせているように思えてなりません。あの固いいすに座らせられ、教師がしゃべっていいと言うまで黙らせ、「終わり」と言うまでのごく短い時間しか言葉を出すことを許されず、さらに話したいと思う相手さえ自由にさせてくれない。それはまるでレッジョエミリアの100の言葉の99までのようですね。
 
いじめを防げるのは教育の力しかありません。もし、いじめがあったらそんなもの教師が悪いに決まっているんです。もちろん過去の分も含めてね。だから的になっている中学校だけではなくて、その責任は小学校にもあるに決まっているんです。
 
もちろんメディアに出ているように家庭の環境がひどいのかもしれない、親は何も言ってくれないのかもしれない。でも「だから仕方がない」のではなくて、「だからこそ学校で育てていかなければ」という思いが必要なのでしょう。
 
そういった意味ではあそこの教師は私は失格だと思う。人の命がなくなったことをあまりにも軽く受け流しすぎているとしか思えません。
 
教師は敗北してはいけないのです。子どもの未来と命を預かっているのもですから。それを私たちはもっと自覚していく必要があるんでしょうね。