どこをめざすのか?

以前、本校で一緒に勤めていたk先生とどんな授業を目指していくのかをよく話しました。
 
今なら言えますが『学び合い』に対しての違和感というのは、日本独特の「村社会の感覚」だと言えます。もし自分がその授業を受けていたら、その教師をきっと恨んだことでしょう。私は子どもの頃からずっと「もっと自由に勉強させてくれ!」と教師を恨んでいました。その反発心は高校でクライマックスを迎えます。定期テストには全く勉強せずに臨み(どこが定期テストの範囲かも分からないまま)、ハチャメチャな成績をとって自分を追い込んでいました。そんなこともあり、私は『』を使わずに「」の学び合いを使っていました。
 
私はもう少しヨーロッパ型の教育を取り込んでいきたいと考えていましす。レッジョエミリアの幼児教育で「個性と協同性は決して矛盾しない」という言葉があったように、私もそこに矛盾はないと思っています。そして、今年の担任した子どもたちにはまさにそうした理念が必要だと思っています。
 
横のカテゴリーにもあるように、私は定期的にエレン・ケイの『児童の世紀』を読みます。残念ながら日本の民主主義まだ幼いとしか言えないので、今のフィンランドやオランダのような教育観の導入は難しいと言えます。しかし、いずれ「教育とは何か?」を日常的に話し合えるような教師像になっていくのだと思います。それまで何年かかるかは私には分かりません。
 
これから数年間はこの課題に取り組んでいきたいと思っています。今は自分は何をなすべき人間なのかずっと模索しています。5年以内にはその答えを見つけたいと思っています。