無くすことが怖い

膨れあがったOSと同じように学校もその役割を肥大化させてきました。
全ての機能を学校に押し込み、それをすべて機能的に動かそうとしています。
 
当然バグがでます。またはフリーズします。ハードディスクも満タンです。プロセッサーも使用率100%です。
 
これが今の学校です。
 
肥大化したものを取り去ることは容易ではありません。なぜならそれを望んでいるのは、保護者だからです。「思い出」だから、「一生に一度だから」という思いがあります。ですからこれまでの学校での取り組みを減らすなんて「とんでもない!」と思うことでしょう。
 
しかし、学校はすでに肥大しきっています。だからそれをやり続けることが、いかに子どもをおろそかにすることになるのかを知っていません。本市だと授業を週に27時間こなして、放課後部活動している教師は「ざら」です。当然、「学び合い」にでもなければ、授業なんてちゃんと成り立つことはありません。多くの授業は「崩壊」しています。知的なかけらのない授業が平然と行われています。
 
これは「学校が死んでいる(窒息)」という状況です。
 
全てを無くすとどうなるか?
子どもが主体の学校になります。放課後の使い方も、行事も。そしてそれらは、子どもによる子どものための活動になっていきます。やらない方が結果として価値あることをやるようになるのです。
 
型をせっせと作って、競わせ、学校というナショナリズムをすりこみ、いかにも子どもに価値あることをやらせているかに力を注いでいる教師もまた「子どもの首を絞めている」のです。
 
過激な言葉のオンパレードですが、これが真実です。
ルネッサンスにまず必要なことは、学校と社会教育の分離なのです。
 
追記
保護者批判ではありません。肥大化させてきたのは教師であり、管理職です。特に子どもの将来と日本の将来を考えない安易な発想で、保護者が喜ぶであろうことを先回りして行ってきたのです。その結果責任を誰も負いません。負うのは子ども自身です。