予告第3弾

教育書の多くは教師側から見た子どもの世界です。では子どもは一体どのように授業を見ているのでしょう。みゆき会では、震災時にこども未来会議を開き、子どもが教師や親(保護者)に何を求めたいか、どのように学びたいのか話し合いました。
僕らの実践は常に「子どもの側」を意識しています。これを即時フィードバックしていくことで、授業を安定的に運営していくことができるのです。子どもは何に戸惑っているのか、そんな戸惑いにどんな手を差し伸べられるのか。僕らはそれらを「教師という人としての能力」にすべて依存させるのではなく、システムとして緩やかに誘導していくことを考えてきました。そうしたシステムの先にこそ協同的な学びがフィットするのです。つまり協同的な学びとは、それに対応したカリキュラムがあってこそ、本領を発揮できるのです。しかし、多くのカリキュラムは教師側の視点から放たれるものばかりです。また、「授業」という同じ時間を共有しても、ベテラン教師と新米教師では授業の見方が異なりますし、学習の上位と下位の子どもでは別の時間が流れているのです。
若い教師からも子どもの側からも「学びの先が見える」そんなカリキュラムが今求められているのです。

予告第4弾

算数の教科担任制をやってみてびっくりしたのは、可能な限り毎日のように算数の授業をやっているのにも関わらず、3月までの時数が不足気味になったことです。

中学校の教師には信じられないかもしれませんが、小学校の教師は時数がどんぶり勘定なのです。運動会の練習の時間が足りないから明日の4時間目も追加で練習するとか、卒業式の呼びかけが下手だから、明日は2時間練習するなどなど。また、思い入れのある教科や単元にはどんどん時間を投入して、他の教科の時数が削られるなんていうこともあります。
こうしてどんどん授業の時数は削られていきます。そのあおりを最も受けるのが「道徳」や「総合的な学習」や「特別活動」なのです。もちろん他の教科も例外ではなく、授業の時数が削られることで授業の内容はやせ細っていきます。
まあ、こうしたことは小学校の実情としてしかたないことでもあります。なぜなら小学生という年齢層からして「初めて」ということが学校にはふんだんにあり、予想外に時間がかかってしまうものなのです。しかし、だからといってこのままでよいとも思えません。行事は山のように押し寄せてきます。
みゆき会の授業実践は、授業時数にとても余裕が生まれます。余裕が生まれるからこそ、とことん追求できるのです。
しかし「質、量を求めても時数には余裕がある」こんなこと本当に可能なのでしょうか?

予告第5弾

車好きで僕の年代の方なら「よろしくメカドック」という漫画をご存知かと思います。1980年台に少年ジャンプに掲載されたチューニングショップの風見準の物語です。0−400などが有名になったのはこの漫画の役割が大きいかと思います。
この漫画の最終章では、新規の自動車メーカー「三戸」で開発中の「MITO NEO」のさらなる開発を兼ねたレースが展開されます。主人公とライバルの那智、そしてコンピュータ好きの新たなライバル五十嵐が競い合います。五十嵐はさらなる速さを求め、ターボチャージャースーパーチャージャーを装備し、風見と那智を追いかけます。しかし、追いつくどころかどんどん引き離されていきます。一体どんなチューニングをしたのかと、三戸の社長が風見と那智の仕様書を読んで驚きます。全く過給器はつけておらず、ジオメトリーとホイールベースの再構成だけでした。数々のチューニングによってレースをしてきた二人が、最終的に選んだ究極方法は、「追加」ではなく「再構成」だったのです。

僕らみゆき会の授業は、まさに風見、那智と同じ戦略です。授業に新たなものを追加しなくても「再構成」だけで圧倒的な力を生み出します。学習の仕組みを理解できれば、各教科・各教科書の持っているポテンシャルを数倍に引き上げることができます。これまで、ぼくらはこの仕組みを「インタラクティブカリキュラム」という造語を使っていました。そして今、時代に合わせて文科省が使い始めた「カリキュラム・マネジメント」という言葉の乗っかることにしました。僕らの学習に対する答えはとても簡単です。探し求めてた答えは眉間のあたりにあったのです。

これが僕の教師として2つ目の大きなブレイクスルーでした。

予告第6弾

みなさんは「カリキュラム・マネジメント」という言葉を知っていますでしょうか? 現場の多くの教師は、まだこの言葉を知らないと思います。
「カリ・マネ」には、3つの意味合いがあります。
1つ目はPDCAサイクルによるカリキュラムの適切な評価と推進。
2つ目は地域・人材・モノなどを学校カリキュラムに組み込むこと
そして、3つ目が、教科横断的な学習構成です。

みゆき会が数年前から取り組んできた、インタラクティブ・カリキュラムというのは、まさにこの3番目の内容になります。ですから、僕らみゆき会では、僕らの実践を文科省に合わせ、「カリキュラム・マネジメント」と呼ぶことにしました。
では、僕らの実践するカリキュラム・マネジメントといわゆる横断的なカリキュラム構成とは一体何が違うのでしょうか?
それは一言で言うならは「機会」なのです。

予告第7弾

僕が中学2年生の理科の授業も受け持った時、生徒が「理科が分からない」という障壁を見つけました。それは小学校の算数と強く関連している内容です。小学校の算数でも多くの苦手意識を持っているのですから、関連する中学校の理科で躓くのは当然なことと言えます。
しかし、中学校の先生方は自分の教科が垂直にはどのように関連してきているかは知っていても、水平方向の関連性を感じ取る力は、小学校の教師よりも低いのものなのです。
しかし、中学校の教師も、これからはより一層、教科を水平方向の関連させていく力が求められていきます。アクティブ・ラーニングとはこうした教材感の上に乗るものだからです。もし、中学校の教師が「教科」という枠を取り払い、カリキュラムを融合的に行えたとしたら・・・
それこそが、これからの日本の教科教育の新しい概念となっていくことでしょう。ぼくらみゆき会は、そうした未来を予測し、実践しているのです。

『学び合い』を学ぶということ

僕は今は『学び合い』を看板に掲げている教師ではないのですが先日フォーラムにお呼びいただいたのでお礼に何か参考になることでもと思い、ちょいと書きます。
 
フォーラムの分科会を全て覗いたわけではないのですが、分科会が多様であってとても良かったです。その一方で多様であるということは、その一つのベクトルとして、レベルもまた様々な段階があるとも言えますよね。これを「Millerのピラミッドモデル」で表してみます。
 
1.knows   『学び合い』を知っている
2.knows how『学び合い』のやり方を知っている
3.shows how『学び合い』の授業実践を他者に見せることができる
4.does 『学び合い』を持続的に実践できる

こうなると思います。みゆき会での分科会はこのピラミッドの一番上の『学び合い』を対象とした発表を行おうということになり、「なぜ『学び合い』は崩れていくのか」という題名で、持続していくためには何が必要なのかというところを明確にしていこうと考えていました。
 
武田さんの講演会の時に隣に同席した方は「はじめて『学び合い』を学びに来てみました」と仰られてたのですから、フォーラムが終わると1のレベルになりますよね。
 
1〜2のレベルの方は、各地で行われている研究会や凄まじい勢いで出版されている本など、学ぶなど環境は整いつつあるようです。
 
レベル3では、自分の授業実践を「誰にでも」見せられるという領域です。それは自分を理解してくれそうな授業実践仲間だけではなく、管理職や教育委員会の指導主事にも「きちんと見せられる(納得いただける)」という意味です。

レベル4では、持続可能モデルで、ある教科だけとか、ある単元ではやる・やらないのレベルではなく「よどみなく」実践できるということです。
 
実は僕はこの上にレベル5の段階があると考えています。
それは「Internalized」(これでいいかな? 英語苦手なのでニュアンスが違う時には教えて下さい) つまり内在化して説明できない状態、身体に染み込んでいて自分の思考と行動をうまく分離できないという状態です。
みゆき会の古田さんや高橋さんの授業レベルになるとこうなります。ですから、言葉にすることがとても難しいのです。分科会では僕に高橋さんの奥底の無意識を言語化して欲しいという依頼をいただきましたので、あのようなドン引きするくらいの恐ろしいツッコミをしていくことになったのです。
 
何事にも自分がどのレベルの段階にいるのか、そのポジションを正確に把握しておくことが大事です。ポジションが分かると次に自分は何をすべきなのかよくわかるようになると思います。まあ何かの参考にでもなれば。